医師会のご紹介

山県医師会は現在の日本医師会が設立された昭和22年の翌年、昭和23年に山県郡医師会として発足し、初代会長は美山町岩佐の吉田末治先生でした。以後2代目が現岐阜市加野の加藤健一先生、そして3代目は伊自良村の鳥澤重男先生と続きました。この間、昭和36年に三輪地区が岐阜市に合併したのを機に、医師会名を山県医師会と改めております。
平成8年4月からは第4代会長として三輪地区の永田君仁先生が平成14年3月まで就任され、IT時代の流れの中で山県医師会のホームページの開設を指揮されました。そして、平成14年4月、21世紀の山県医師会を発展させるためには、若い世代に会長職をバトンタッチすべしとの永田先生の強いご意志により旧伊自良村の鳥澤英紀先生が第5代会長に選任され現在に至っております。

山県医師会の誇るべきものとして、昭和60年頃から県下はもとより全国的にも、さきがけて厚生連岐北総合病院を基幹病院として"病診連携"を進めてきたことがあげられます。
ときの会長鳥澤重男先生と厚生連岐北総合病院院長樫木良友先生との間で『地域医療において開業医師を中心とする診療所と入院設備を持ち高度医療の提供が可能である病院が互いに親密な関係で協力しあえる体制を構築することが、これからの医療には絶対に不可欠である。』という共通認識のもと地域住民一人一人が身近にかかりつけ医を持ち、また基幹病院へのスムーズな紹介及び逆紹介システムによる24時間365日のいつでも安心の医療供給、基幹病院での高度で安全な医療提供などを目指して日々努力されてまいりました。
この実績により平成7年4月からは県の予算補助事業として『山県郡地域医療連携推進事業』が立ち上がりました。岐北総合病院に開放型病床が開設され、同病院内に地域医療連携室が設置され、また運営委員会が医師会代表、保健所代表、岐北総合病院医師代表、同病院看護部代表、同病院事務代表、地域医療連携室職員により構成され5年間にわたり県のモデル事業として進められました。
この時の実績は県内外に大きな評価を得て、その後の国の厚生行政における"病診連携"推進の流れに結びついていったものと自負しております。
現在では、岐北総合病院は病院名を岐北厚生病院とされ院内に『地域連携室』が設けられ専任のスタッフによる迅速な対応が実現されております。

このように発展してまいりました山県医師会ですが、21世紀も7年を経過し、世はまさに激動の時代となってきました。医療の世界も、健康保険制度の大変革の波が押し寄せ、医療費削減の大号令の中、医療機関に支払われる診療報酬の引き下げ、患者さんの窓口負担率の増額から、医療機関側、患者さん側のどちらにとっても困難な時代となっています。

こうした流れは地域医療のあり方にも様々な影を落としつつあります。
入院施設や高度医療を受け持つ病院から、過労、過度とも思われる医療訴訟などが重なり、医師がどんどん勤務医を辞める、そして残った勤務医に更に負担増加が起こり、また辞めるという悪循環が起こり、入院治療・高度医療などが十分な機能を発揮できない状態に陥ってしまている病院も増加しています。特に産科ではその状況は激烈で、今や安心して子供が産めない時代となっています。“救急車のたらい回し”も問題になっています。

また、いわゆる“田舎”では無医村が増加し、居住地区の近くに医者がいない医療過疎状態です。こうした“田舎”に大学病院が医師を派遣していたのですが、その大学医学部卒業生が大都市の“研修病院”に行ってしまい卒業した大学の附属病院に入らないという現象が全国的に起こっており、大学病院自体が医師不足に陥り、大学から“田舎”に医師が派遣できず、むしろ派遣されていた中堅の医師を大学に呼び戻して田舎の病院は規模縮小や病院閉鎖という事態にまでなっているところも増加しています。

一方ではこうした中規模以上の病院の医師不足とは正反対に、都市部、(及び郡部でも)町の中心地に、医師(開業医)が集中し、医師過剰となり、医療界に悪い意味での競争が起こっています。このような状況を“医療崩壊”の流れとよんでいます。

平成15年4月から、美山町、伊自良村、高富町の3町村が合併し『山県市』となりました。新市のスタートに伴い山県地域の行政も大きく変化し、山県市としては人口変動はあまりありませんが、住民の地域内移住が加速し、旧高富地区に人口が集中し、美山地区が過疎化する現象が続いています。
そして、先の“医療崩壊”の流れは、山県も例外ではなく、岐北厚生病院の医師不足、高富地区の医師の新規開業ラッシュなど山県医師会も多くの課題を抱えています。しかし、山県医師会は小さな医師会ですが、山県を中心とする地域の皆様方の健康管理のためこれまで以上にお役に立つよう今一層の努力をいたしております。よろしくお願い申し上げます。